念願のミシンをゲット '03年8月30日(土)

出産予定日を来週末に控え、生まれてしまう前にやっておきたいことが山積みである。その中のひとつ、「ミシンを買う」が本日やっと実現。

予想はしていたが、店員に「安物は長持ちしない」と接客され、若干予算オーバー。躊躇していると店員が言うことにゃ「大きなお腹で3人も連れて来店してくれたから1万円引きましょう」…二重価格か?とも思いつつ、思い切り喜んでみせたりする。こういうとき、なるべくおーげさに喜ぶことで、ツキの神様がよろこんでさらなるツキを運んでくれるのである。子どもたちも練習させてもらったりして、持って帰るなり2学期用のゾーキンを自分で縫う。?ゾーキンは手縫いにすべきか?とも思ったが、そのあと絵日記のネタにもなっていたのでOKということで。

さて、予定日を控え、あとは「ガスレンジまわりの掃除」「台所のカオスの整理」など。どこまでできるであろうか。

K介くん '03年8月25日(月)

仙台から客人来る。ricochicaのTんぽぽ幼児グループ(幼稚園入園前)のときのお友だちが、引っ越し先の仙台から、こちらの大学病院に定期的(年一回)に通院しているのである。他にその時のハハ友達2人、うち1人は2人小学生連れにて来訪。

ちょうど暑い日だったので、子どもらは庭プールで遊んでもらうことができ、ハハらは陽がささない涼しい(寒い)リビングでゆっくり茶など…。と、思ったらI倉k介くんが「僕は水着がない」と大泣きし始める。K介ハハは後の予定もあるので長居をしないつもりでわざと持参しなかったのだ。

おかあさんのせいだ〜!とりにいってよ〜!」と大騒ぎなので、車で取りに行ってあげたりして。もう小2なんだから自分でおうちに取りに戻らせてもいいかな、と思ってそう言ったら、「どこにしまってあるかわからない、お母さん行って」と甘えるし。車に乗り込むとなぜか何の用もない4年生のお兄ちゃんの方が「僕いく〜」と助手席に乗ってきた。この家は今どきこの辺では珍しく車を持ってないので、こういう機会は逃しちゃなんねえ、てことかな。

そして、帰る寸前も持ってきたゲーム機の取り合いがもとで激しい兄弟ゲンカ勃発。年齢の近い男同士の兄弟ってのも大変そうだわ〜。

amiちゃん、トイレでunchiが! '03年8月15日(金)

ほーらやっぱり、出来るまでは待ち遠しいが、出来るようになるとあっけないほど簡単に出来ちゃうのである。 まあ、確実に出来るようになるまで一応オムツは持ち歩いたりはするんだけど。ふふふ。ウレシイわあ♪

amiちゃん、オマルでunchiが! '03年8月9日(土)

かしこいamiちゃんはきっとオムツがいらなくなるのも早かろう、とオマルを用意したのが3月末ごろ。しかし、それから半年近く経ってやっと今日初めてオマルでウンチが出来たのであった。ウレシイわあ。

ricochicaのときはオマルを置く場所がなかったので、補助便座だけ。足を踏ん張るための台を手作りしたりと少々苦労した末、ある日突然外出先の中華料理屋のトイレであっさり出来るようになったりしたものだった。

amiちゃんがトイレでできるようになるのもたぶん時間の問題。 そして、オムツがいらなくなるのね〜♪

お通夜、その日の絵日記は '03年8月5日(火)

ricoは絵日記でおじいちゃんへの思いを絵を描くスペースまで使ってせつせつと綴った。が、chicaの絵日記は…。お通夜がありましたおすしがでましたおいしかったです。…これだけ。これでいいのか?

ママが死んだときも“お寿司がおいしかった”しか書いてもらえないかったら悲しい」旨を伝えてみたりはしたのだが。本人は「むずかしいことは書きたくない」「たのしかったこと、おいしかったことは書きたいけど」と頑な。(1)感受性が乏しい、(2)悲しすぎて書けない、(3)複雑な思いを書くのがめんどくさくてサボっている、のどれかだとは思うが…。どうも(3)の“サボり”のような気がしてならないなあ。

でもプールには行きたい '03年8月3日(日)

義父の遺体がエンバミングされて姑宅に帰ってきた。エンバミングとは遺体が痛まないようにする化学処理加工で、半永久的に生前の面影を残せるもの。今回、この暑さにも関わらず告別式まで4日も空くので、この処置を施していただいた(けっこう高価だったが)。

義父母宅(ricochicaが生まれた頃は、仕事で栃木にいた義父母のかわりに我々が住んでいた家)には気持ち微笑をうかべた舅が、キチンとワイシャツに背広を着せられ、今にも目を覚ましそうな雰囲気にて横たわっている。夫が娘達に「おじいちゃんに手を合わせて、今までお世話になったお礼を言って、お別れをするんだよ」とか言ってみんなでさめざめと泣く。

その後、「じゃ、(地域開放中の)中学のプールに行こう!」と、ricochicaと保護者付き添いの夫はプールに行ったのであった(妊婦と4歳以下は入れないので留守番)。切り替え早すぎない?

義父、逝く '03年8月2日(土)

義母に携帯を持たせるヒマもなく、義父は逝ってしまった。

毎日毎日、電車・バスを乗り継いで義父のいる病院へ日参する義母だったが、今日はちょっと遅めの12時過ぎに出かけていった。その直後、実家の方へ死亡を報せる電話が来た。義母と同居している義妹がその電話を受けた。もう義母とは連絡がつかない。車で義妹を拾って病院へ向かう途中、丁度バスから降り歩いている義母も拾って、駆けつけたのが1時半くらい。もう彼は、病院から一番運び出しやすい“特別室”に移されて静かに眠っていた。

臨終に立ち会った医師はもう帰ってしまっており、最期の様子は伝え聞くのみだったのが残念。こういうのを“親の死に目に会えない”というのかな。実の親ではないが、残念だ。最期に伝えたかったことはなかったのか、何か話せたのではないか、など想われてならない。それに、実は本人には一つ病名を隠していたので、それを告げるべきだったのではないか、なども思う(もし自分だったら、自分自身の体のことなのに知らされてないことがあるなんて納得いかない)。 病院の言葉を疑うわけではないが、本当に苦しまずに息を引き取ったのか、なんてことも気になるし。

なにより、もう一人赤ちゃんを見せて、目を細めて喜ぶ顔が見たかった。


やっと夏休みらしくなったその日 '03年7月30日(木)

久しぶりに実家の両親が遊びに来た。夏休みのこどもたちと楽しくお食事したい、とのことなので、新しく出来たちょっとおいしいと評判の回転寿司に出かける。ちょっとおいしいかわりに回転寿司としては少々高いと聞いたので、スポンサーのいるときに行くのがいいかな〜などと考えた末のアイデアだ。そんな呑気な気持ちでワイワイやっていたら、突然夫から携帯がくる。「病院から、親族は集まるようにと連絡があった」。

夫と義母が駆けつけしばらく様子を見守るも、乱れていた呼吸は落ち着いたので、「おばあちゃんにも携帯を持ってもらった方がいいねえ」と言いながら戻ってきた(その間子どもたちは呑気に庭プールで水遊び)。

ここのところぐずついた天気が続いていたところ、今日やっとパアっと晴れて暑さがやってきて、庭にプールも出せた。が、同時に心配な日々が始まるのであった。

今さら手足口病に '03年7月20日(日)

昨夜、小学校の“夕涼み会”(4/15参照)から帰ってくるあたりから「お口の中が痛い、沁みる」と訴えていたrico。パパによる療法は「しみるのをガマンしてビタミンCのタブレットを噛め、そして栄養のある温かいラーメンを食べよう」というものだ。そうかなあ〜と思いつつも夕ご飯においしいラーメンやに行く。ちょうど“女性客に杏仁豆腐、お子さまにアイスクリーム”どちらも無料サービス中でラッキー! ricoとしておもいっきり機嫌は良くなるが、でもお口は痛いまま。

帰宅して落ち着くと、手のひらや足の裏、ヒザやおしりにも赤いちいさなブツブツができているのを確認。これはまぎれもない“手足口病”ではありませんか!(子どもができるまで聞いたこともない病名であるが、少々発熱することもある程度の 軽い夏風邪の一種)こういうときに参考にする写真入りの“こどもの病気・ホームケア百科”によると、“食事は、温度の高いもの、塩気のあるものを避け、回数を分けて少しづつ”与えるようにとある。

ラーメン…。自分が食べたかったのか…?。

夏休みの野望 '03年7月13日(日)

もうすぐ夏休み。とりあえずやりたいことをゼンブ書き出してみよ、と提案すると、“これは別に夏休みでなくとも…”というものまで、随分書き出してくれた。

うみにいきたい、プールにいきたい、およげるようになりたい、おりょうりをつくりたい、おかしづくりがしたい、おやまのおうちにいきたい、自由研究がしたい、じぶんでかんがえてこうどうできるようになりたい、んん?

amiちゃんはまだ小さいし、なんといっても8月には臨月の妊婦となってしまう故、海や山は無理でござるよ。でも、小学生の夏休みは何度もあるわけではないので、なるべくたくさんの体験をさせてあげたいものである。

砂遊びとはこーゆーものよ '03年7月11日(金)

今日は当番。デカいお腹ではこどもたちと一緒に走り回ったり木登りしたりは出来ない。が、砂場が盛り上がって、楽しい時を過ごした。

マーが砂場のまん中に座り、自分で足を埋めて、“見て見て〜”と言い始めたので、“よっしゃ、もっと埋めてやろうじゃないの”と、一緒にいたハヤトとともにを砂に埋めそのまわりに山や川を作り込んでいった。その時一緒にいたKょー子さんもハダシになって砂場に入り、道路、街、ここはダムと作り出す。マーのヒザは完全に砂に埋まり高い山になり、山には葉っぱを差して木に、ヒザの下はトンネルに。amiちゃんと一緒にスーパーの袋に水を汲んで川に流す。一瞬ダムが湖っぽくなると“おお〜”と感激。しかし砂が吸ってしまうのですぐに次の水を汲みに行かねばならない。

しかし、砂場独占状態になってしまい、他の小さいこどもは“一緒にやろうよ”と声をかけてもそうはのってこない。だって、ふつう砂場とは、小さい子がプリンだケーキだと型抜きしたりしているその外側にお母さんたちが囲むように座っていて、お母さん同士の社交場のようになっているのだ。ハダシのお母さんが一緒になって道具もなしにでっかく遊んでいるのを見ては、ちょっと引いてしまうというものかも。

そのうち、それまで日影だった座っているマー君の場所に直接太陽が照りつける時間となり、“弁当にしよう”という声もかかり、おひらきにするチャンス。Kょー子さんの“よーしっ、こわすぞ!”の号令とともに、こどもたちは奇声を発しながら力作を踏み壊しまくった。これなら、よその子があとで見に来たらすでに半壊していてガッカリ、なんて心配もないってものである。さすがKょー子さんだわと感心し、またやりたいなと思いつつ弁当を食べる私であった。

七夕の短冊にふさわしいお願い '03年7月7日(月)

今年もまた庭に勝手に生えてくるササらしき葉を使って家の中で七夕を行う。短冊の願い事はrico:さかあがりができるようになりますように chica:ともだちがたくさんできますように どちらも七夕にふさわしい内容ではなかろうか、と親馬鹿的に思ったりする。

と、どーでもいいようなことをしみじみ感じてしまったのは、先日某K北T急に行ったときに下記のようなことがあったから。

エントランスの吹き抜けに巨大ササが飾ってあり、色とりどりの短冊が用意され、自由に書いてつるせるようになっていた。なにげに見ていると、“志望の幼稚園に入園できますように”といったものを複数発見。評判のいい幼稚園に子供を入園させるのは大変な当地域において、切実な願い事なのはわかるのだが、七夕のお願いとしてはいかがなものか。また、それならそれで、も少し具体的に書かないと、お星様だって願いを叶えてあげにくいのではなかろうか。


久々のたらい回しby行政 '03年6月27日(金)

amiちゃんの3歳児健診である。BB団の活動を昼過ぎに抜け、あまり待たなくて済むようにわざと受付時間終了ギリギリを狙って保健所(名称あらため保健福祉センター)へ。13:00受付開始というのを真に受けて丁度の時間に行くとえてして長蛇の列。以前の住所のときのセンターでは、12:00に整理券を配り始めてたりするらしい。ricochicaの小さい頃は、狙わずともいつも最後の方になっていたものだ。今度のところはどうかしらん。

…ということで、受付時間ギリギリというのは狙い通りだったが、その後の流れが上手くいっていない。問診、身体計測、歯の検査といった項目ごとにやたら待ち時間が長い。うう〜ん、何が違うんだろう。

終了後、自主保育合同見学会のチラシを10部ほど持ってきていたので、センターの待合室などに置くまたは貼りだして欲しい旨を保健婦さんに相談した。保健婦さんは、いとも簡単に「はい、わかりました〜、今日はおつかれさま〜」と軽く預かってくれた。そして帰りかけた私は、“はっ、問い合わせ電話番号に市外局番が必要だわ”と気づき引き返す。預けた保健婦さんは不在だ。健診が終わって打合せ&反省会などしているところに聞きにいくが、預けたチラシがドコにいったかわからない。

やっと、センターの事務所にいた先ほどの保健婦さんからチラシを取り戻すが、その時には他の保健婦さんに「区役所の総合受付に持っていくように」と言われておったので、市外局番を書き加えたものをそこに持っていくと、「子育て支援課へ行くように」と言われ。そこへ行くとなんと最初の保健福祉センターの事務所である。この間、出会った窓口ごとに「自主保育とはしかじか」「市のはじっこに住んでいるので市外の催しであるが近くである」などといったことをいちいち説明するはめに。しかも、結局、チラシは全部お持ち帰りになってしまった。

以前、amiちゃんが乳飲み子の頃にもこれに類する(もっと回され、結局その必要がなかったような)出来事があった。行政というのは、赤ん坊をおぶっているモノでも情け容赦なくたらい回しにするものだとわかったので、今回はさほど驚くこともないけど、ね。

はじめての“カギっ子” '03年6月13日(金)

今日は例の自主保育グループで保育当番である。ちょっと足を伸ばして東京S谷の児童館に行くことになっている。どう急いでもお姉ズの帰宅時間に帰るのは無理だ。

もう2年生だし思い切って鍵をもたせてみよう、と、ちょうど2つついている玄関の鍵を一人にひとつづつ分けて持たせる。待ち合わせして一緒に帰るように、鍵は首から下げて人に見せないように、など言い渡すが心配。変な人に尾行されて、親がいないのを察せられたらどうしよう。こわいよう。amiちゃんはじめ、こどもたちと楽しく遊びつつも「今頃もう下校時刻かしら」などと思い出してしまうと100%楽しめないのである。

帰りがけ、駅から電話を入れると、あっけなく2人とも帰宅しており、宿題などやっている。精神的にも疲れたのでタクシー(only 1メーター)で急いで帰った。あ〜よかった。

amiちゃんのいっちょ前な言動 '03年6月11日(水)

チビたちが、毎晩、“どんな並び順で寝るか”でモメている。小学2年生にもなれば、そろそろ自分の部屋でそれぞれで寝てもよさそうなものだが、相変わらず川の字で寝ているからだ。

話し合いではなかなか折り合いがつかず、ジャンケンでなんとか順番が決まった。が、その成果を無にするのが2歳児のami。ジャンケンに負けているのにお姉ちゃん達と私の間に無理矢理わりこんでくる。「も〜、どーしてわりこんでくるのっ!やめて」と叱られて、amiちゃんはちょっと泣いて、そして「だってままのとなりでねたいんだモン」とひじょーにマトモな回答を。

それにしても、いつまでこのように「ままのとなり」を取り合ってくれるのでしょうか。

A生市民館にてオンステージ! '03年6月8日(日)

きのうの今日、とはこのこと。こんどは昨年も出たA生音楽祭(コーラスの部)である。

今度は時間の制限もあり10分、2曲のみ。昨日の余韻の残る我々はノリノリで、歌い終わると“イエ〜〜イ!”“ヒュ〜ヒュ〜”とかなんとか言って自分らで拍手喝采しつつ退場。はっきり言ってかなり浮いていると言わざるを得まい。タキシードのおじいさんたちの男声グループとか、女声のグループだとロングドレスだったり、PTAぽかったり、という中では特に…。

“ママさんコーラス全国大会”ってあるらしいけど、わたしらが出ることはできるのであろうか?出られたとしても、やっぱり浮いてしまうのでしょうかねえ?

Y々木公園でオンステージ! '03年6月7日(土)

ゴスペルのEmi先生の生徒たちからなるグループの一員として「原発やめよう全国集会2003〜こどもたちに原発も核もない未来を」という催しのオープニングに30分の出演。

いつもは20人ほどのママさんグループで歌っているわけだが、同じ門下の"各教室"の人が結集するので、なんと100人以上の迫力のステージに。それだけではない。伴奏は、バンドの演奏。そのバンドというのが、我々素人クワイヤーには勿体ないほどすごいメンバーだ(ま、TVに出てる人、とかではなくて、あくまでジャズ・フュージョン畑でライブで、聞くなら何千円もかかるよというような意味ではあるが)。だから、重いお腹を抱えていても、絶対参加したかったのである。

7曲も譜面のない状態でしかも英語の歌詞を憶えて、なおかつ感情を入れて歌うのははっきり言って厳しかった。が、やればできるじゃあないの!演奏も期待を裏切らないものであったし、よかったよかった。もうこの後、産前産後何ヶ月かは、こういった機会は持てないのだ。その緊張感があるからいいのかも。

 

←back to dairy index

 

2004春[3-4-5月分]へ

2004夏[6-7-8月分]へ

2003春[3-4-5月分]へ

2003夏[6-7-8月分] 

2003秋[9-10-11月分]へ

2003-04冬[12-1-2月分]へ

2002春[3-4-5月分]へ

2002夏[6-7-8月分]へ

2002秋[9-10-11月分]へ

2002-03冬[12-1-2月分]へ

2001春[(2)3-4-5月分]へ

2001夏[6-7-8月分]へ

2001秋[9-10-11月分]へ

2001-02冬[12-1-2月分]へ